蝶の夢

受胎告知

 明るい日の光の下で育つ、山百合のような女性だった。
 第一印象は外見も内面も白い人。何でだろうと考えても答えは一つに絞り込めない。彼女の着る白い服のせいか、聖母のような微笑みのせいか。あるいは襖の隙間から降り注ぐ朝の日差しを、一身に受けていたからか。
 「ゆり」という彼女の名前から連想した、というのもある。
 しかしそれは全てを反射してしまう純白ではなく、優しいクリーム色に近かった。
 そして、彼女の斜め後ろには慧の兄――たくみが立っている。
 匠はにこやかな笑みを浮かべながら愛する女性の肩に両手を添え、中へと促していた。「さぁ」という言葉を合図に、私は現実に引き戻され、彼女は和室に入って来る。
 慧はいつものように抹茶色のソファに座り、本に視線を向けたまま言葉を投げる。実の兄であるというのに、匠のことは一度も見ようとしていなかった。
「――珍しいですね、兄さん」
「そうだね。君の男姿を見るのも久し振りだよ」
 嫌味に聞こえかねないそれも、この兄弟にとっては普通のやりとりだ。
 彼女は予め慧のことを聞いていたのか、驚いた様子は見て取れない。寧ろ、立ったままくすくすと肩を震わせている。面白そうと言うよりかは、微笑ましそうに。
 匠はそんな彼女を見て小さく肩を竦めてから、ソファの縁、肘掛けの部分に腰を下ろしている私に声をかけた。
 慧が時々見せるのと同じ、艶やかな笑みを浮かべる。
「久し振りだね小夜さん。元気?」
「本題を早く言ったらどうです。小夜のご機嫌伺いをしに来たのではないでしょう」
 横から割ってきたのは慧だった。
 慧は彼女をちらと見るとソファから退き、「どうぞ」と彼女に告げて畳に正座した。私も慧に倣い、横で正座をする。
 読みかけの本が伏せられているソファに彼女は座り、その隣に匠が立っていた。
 私が見上げているせいもあって、まるで女王とその騎士を見ているようだった。
「はじめまして小夜さん、慧さん。話は匠から聞いています。……この度、匠と一緒になりました。旧姓、設楽したらゆりと申します」
 暫く、言葉が出て来なかった。

 私と慧、早く立ち直ったのはもちろん慧だった。
 体の前で三つ指をつき、丁寧な辞儀をする。――ぱさりと黒髪が流れ落ちるのも、どこか女性的であり優美だった。
 私もつられるように頭を下げた。慧ほど優雅にとはいかなかっただろうけれども。
「おめでとうございます。心よりお慶び申し上げます」
「おめでとうございます」
 重ねて発した声音が思いのほか掠れていて、私は驚きながら喉に手をやった。一体どれだけの時間、言葉を発していなかったのだろう。
「ありがとうございます。……それとね」
 ゆりさんは匠とどこか眩しくも思える笑みを交わして、それから両手を体の前でゆっくりと交差させる。そして、その視線は私に向けられていなかった。

 全て、慧に。
「私、匠の子供を身ごもっています」
 今日、二度目の衝撃だった。


 現在、仁科の跡取りである長男夫婦に子供が出来る。
 それが何を意味しているのか、私も慧も充分に知っていた。もしそれが男の子であったら、慧の存在意義がなくなるということも。
 十二歳の夏、私は決断を迫られた。
 慧の境遇を全て教えて貰い、その上で今後の身の振り方を考えたのだ。私は幼馴染みのお兄ちゃんがいなくなる恐怖から『慧の婚約者でい続ける』結論を出したが、それが間違っていたかはよく分からない。

 跡取り問題による、仁科家の内部分裂。

 長男である匠と次男の慧、どちらも優秀で実力や人望もある。しかし、当主は二人も要らない。後継者争いの派閥が出来、家が二つに分かたれるのも時間の問題だった。
 慧の父はそれを見越し、事前に阻止しようとした。
 まず慧の存在を誤魔化しが出来なくなるまでひた隠しにし、女装をさせて女として育てる。更に『仁科の次男は病気がち』という噂を流して視線をただ一人、長男の彼に向くようにする。
 子供が出来れば、それは確定的なものとなり――。


「慧」
「はい」
 ゆりさんと匠が出て行った後、私達は日常を過ごしていた。いつも通りで変わり映えもない、平和で単調で、ある意味閉鎖的な日常を。
 慧は読みかけの本から顔を上げて、ソファの肘掛けに座る私を見る。この場面だけ切り取れば、まるで先ほどのことなど何もなかったかのようだ。実際、慧の中では何もなかったのかもしれない。
 それでも、私はなかったことになど出来なかった。
「大丈夫?」
「おや、何のことでしょうか」
「知ってるくせに」
 さも可笑しそうに小さく笑いながら、慧は緩やかに首を傾げる。背筋がぞっと冷たくなったような気がした。
 こんなにも楽しそうに笑うのに、慧の目だけが笑っていなかった。ただ人形のような、濃い闇の色が私を見つめ返すのみ。
「そうですね」
「貴女が当主の妻になりたいと願うのであれば、クローディアスのように完全犯罪を起こしても良いかと思うのですが」
「……最悪」
「望めば良いのに」
 私は現実から目を背けるように瞼を閉じていた。
 視界は遮断され、闇に取り囲まれる。僅かな光が黄色く瞼の裏を染めた。
「一生傍にいて下さるなら何でも贈ってあげるのに。バッグでも服でもアクセサリーでも。けれど貴女は何も言わない」
 ぎし、とソファのスプリングが密やかに鳴っている。そして、喉を両手で挟まれているかのような感触が息苦しい。
「自由と引き換えに、でしょう?」

 その答えは、わざわざ目を開けずとも分かっていた。
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