蝶の夢
サロメ
「さや、いつか殺されるよ」
「そうかもね」
今にも消えそうに、儚げに微笑んだ彼女の顔を忘れることが出来ない。
『永遠に夜の来ない世界をくれるなら、考えても良いよ』
愛から貰った調査結果を捲りながら彼女の言葉を思い出す。
仕事相手の意向で俺以外の人間を全員立ち退かせたため、秘書や補佐は隣の部屋に待機していた。
小夜がそう言って一年間、俺は仁科について隠密に調べていた。
まず興信所や探偵に依頼したが、相手のガードが固く仁科の情報は何も手に入らない。次に自分の一族である久我専用の探偵を手配し、しかし途中で見抜かれ追い出されていた。
最後には情報を司る安沢家に頼み込み、久我が持つ多くの情報と引き換えに調査をして貰った始末。
事情が事情なので安沢も随分と渋っていたが、俺は動かせる限りの情報を安沢にやっていた。
担当したのは――恐らく偽名だろうが――愛と名乗る少女だった。
年齢は中高生程度、安沢家当主の娘で仕事はし慣れているらしい。どこかで見たことがあると思えば、あのパーティーの日に激昂した小夜を諌めた子だ。高い位置で結ばれた二つ結びが赤い紐と相まって、少女を兎のように見せていた。
数十分前のこと、俺は執務室にて椅子の背凭れに背中を預け座っていた。
仁王立ちする愛が俺を見下ろす形になり、きつい眼差しをこれでもかとばかりに向けていた。
高校の制服を身にまとった愛は、調査結果を渡すのを散々嫌がった挙句、
「仕事ですから、そう仕事なんだもん。ほんっっとうに嫌ですけど……仕方ないです」
と言って、十数枚程度の厚みの白いレポート用紙の束を叩きつけた。マホガニーの机に当たり、パンと小気味良い音が鳴る。
真ん中に『仁科について』、その左下に『作成、愛』と書かれている。この部分だけは年相応なのか、夏休みの自由研究を連想させる調査結果だった。
愛は再び俺を挑戦的な目つきで見下し、ハッ、と笑い嘲った。一瞬だけ悪魔の片鱗を見せてから、口調は間延びしたものへと変わっていく。
「分かってるんですかぁー?」
「何を」
何でこいつはこんなに訳知り顔なんだ。
嫌悪を隠さずに聞き返すと、愛は「ええっ!」とわざとらしく飛び跳ねて一歩後ろへ下がり、びしりと人差し指で調査結果を示した。
「それを読むことによって、小夜さんが悲しむかもしれないじゃないですかぁー」
「そんなの」
今更だった。六歳まで同じ時間を過ごしてきた幼馴染みの小夜には『馨に何が分かるというの』とまで言われ、仁科については心ない噂を聞き、関わろうとすれば久我の人間に止められる。
それでも、俺はその噂を素直に信じる馬鹿じゃない。自分の手で真実を掴み、それで何らかの問題があれば正すしかないと思う。
きっと、それは外側の人間にしか出来ない。
愛はじっと品定めするようにこっちを見ていたが、暫しするとふっと息を吐いた。足早に扉へと近付き、ノブに手をかける。
「……まぁ良いです。じゃ、私もう行きますね」
「ありがとう」
礼なんて不要です。
言い切り、そして肩越しに振り返った。兎の耳のようにまとめられた長い髪が空気を揺らす。
「仕事ですから。でも忘れないで下さい。これが仕事じゃなかったら絶対に私こんなこと教えたりしません。いくら小夜さんのためでも、部外者は手を出しちゃいけないことがあるんです」
愛は冷たく言葉を吐き捨て、乱暴に扉を閉めて出て行った。
バタバタと足音が遠ざかっていくのを確認すると、俺は溜息をついて調査結果に視線を落とした。
捲るべきか、捲らざるべきか。捲ったら最後、もう仁科と――小夜と縁が切れない気がする。今までの平穏な人生を放り出すことにもなるだろう。
長い時間が経ってレポート用紙を捲り出した時、手の震えは止まっていた。
誰に何と言われようが罵られようが構わない。
小夜を守るために、どうしても必要なことなんだ。
電話がかかってきた。
この何もない仁科の離れでは、立て掛け式の電話と一つしかないテレビだけが外との連絡手段。パソコンはどうなのだろう、少なくとも私は見たことがない。
慧がいない、広い和室はがらんとしていた。強いて言うのであれば虚無。持ち主をなくした部屋はこうなるのであろうか、とも考えてしまう。
私は気だるげに立ち上がり、電話を取った。昨日は夜遅くまで来週提出のレポートをこなしていたせいで床についたのは二時過ぎだ。
慧も今日は緊急の仕事でいない。
出来ることなら今日はずっと、布団の中でうとうとまどろんでいたい気分だった。
けれどもこうなった以上仕方ない。
「……はい」
『あ、さや?』
それだけで相手が誰だか分かった。私をその愛称で呼ぶのは幼馴染みの久我馨しかいないからだ。
しかし珍しい。よっぽどでない限り、彼が私に連絡をしてくることはない。
もしかしたら単に慧が裏工作しているだけなのかもしれないが、彼と電話で話すのは久し振りだった。先日の卒業祝いで会ったからそれでだろうか。
何か忘れ物でもして行ったのか――ならば、私ではなく実家に電話をした方が早いだろう。
「先日のパーティーはありがとう。何か忘れ物?」
『いや、そういうんじゃないけど』
「じゃあどうしたの。何かあった?」
『特には何も。さやは元気?』
電話越しの彼の声は、何故だか私を気遣うように響いていた。
私はコードの長さを確認して畳の上に座り、足を投げ出した。そのまま、頭を上に向ける。
間接照明が柔らかな橙色にも似た光を放っていた。外はおそらく、春の日差しと深緑の香り。花が咲き、ひらひらと紋白蝶が舞っている様子が想像出来る。
「元気よ」
『なら良かった』
「……本当に、どういうつもりなのよ。言いたいことでもあるの?」
『あの、さ。外には出てる?』
私はすっと目を眇めた。ふつふつとした、言葉に表しようのない感情が湧き上がってくる。
「どういう意味?」
『――そういう意味。さや』
「何よ」
みるみるうちに、自分の機嫌が急降下していくのは分かっていた。
でも止められない、あの時みたいに、横から止めてくれる人もここにはいない。
刺々しい言葉が、まるで抜き身の刀のように。
『今、軟禁されてるって』
「言わないで!」
私は思わず声を荒げ、すぐに口をつぐんだ。
考えなしの行動だった。……いつどこで、誰に聞かれているかも分からないのに。この会話も、全て慧に筒抜けなのかもしれないのに。
『さや、よく聞いて。お節介だとも余計なお世話だとも、充分分かっているんだ』
「……」
無性に電話を投げつけたくなった。正論はもう聞きたくない。
彼は、誰もが羨むような光の中をまっすぐに歩いてきた人だ。だから、私から見れば眩しすぎて、跳ね返したくなる。
目を背けていたくなる。
『ひと言、「自由になりたい」と言ってくれれば。今ならさやに真昼の世界をあげられるんだ』
「嘘でしょう」
言い切りながらも、心が無様に揺れているのが分かる。
まるで糖蜜漬けの砂糖菓子のような誘惑。甘く私を誘うそれを断ち切りたくて、私は受話器から耳を離した。言われなければ完全に諦められるのに、可能性を示されたらもう。
奪われた自由を取り戻したい。
外に出て、普通に女の子として友達と買い物をしてみたかった。とりとめのない放課後のお喋りもしてみたかった。
けれども慧を見捨てられない。私は慧にとって初めて出会い、仲良くなった女の子というだけ。一人しかいなかったから執着しているだけ。
慧を憎んでも嫌いになろうとしても出来ない。それも本当で。
『嘘じゃない』
「……もう切るわよ」
汚染されてしまいそうな気がして、彼の了承を待たずに電話を切った。
再び電話が鳴ることはない。
小さく息を吐き、そろそろと忍び足で襖に近寄った。大きく開け放つと、花咲き誇る春の庭が目に入ってくる。その後方には天と地を遮断する高い塀。
理由は分からないが、どうしようもなく泣きたくなった。
そして願うなら、この動揺が彼に伝わっていませんように。
慧が仕事から帰ってきた時、私がいつも通りの私でありますように。
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