蝶の夢

最後の晩餐

 どこまでも続くかのような和室だった。都内ということすらも忘れさせる広い敷地内、その端にぽつりと建つ母屋よりは小さめの離れ。
 二人の男と一人の少女は、その離れの一室にいた。上座にいるのは高い位置で髪を二つに結っている、私立の名門紫苑学園の制服を着た少女。
 下手に二人の男が向き合って座っている。話は一方的に一人の男が喋り、もう一人は黙って聞く役のようだった。どちらも系統は違えど目を見張るばかりの美男だったが、少女は眉一つ動かそうとしない。
 いや、話を聞いているのかすら謎だった。
 何せ飽きたのかポケットから卵の形の小さなゲーム機を取り出して、勝手に遊んでいる。ピッ、とこの場にひどく不似合いな音を立てた。
 男は話し終えると、徐に少女を見やった。あーご飯あげるの忘れてたっ、とゲームに熱中しているように見せながら悔しそうに唇を噛み締める少女に、男は眉根を寄せ不満を隠しきれないようだった。声音にもそれがよく出ている。
「聞いたか、安沢」
 はいはい、と少女は面倒くさそうに言ってゲームを仕舞った。にこりと笑って首を傾げる。
「大丈夫です。ぜぇんぶ、ちゃんと聞いてましたよー。――慧さま、どうします?」
 少女は今まで黙って聞いていた男、慧に話を振った。慧はゆっくりと顔を上げ、少女に向かって言い放つ。その態度は余裕とも、また不敵とも見て取れた。
「彼女が望む通りに」


「どこかに行きましょうか」
 手元の文庫本――今日はジキル博士とハイド氏だった――に視線を落としたまま、慧が言う。そして、それがあまりにも自然に言われたものだから、私はつい聞き逃してしまっていた。それでも慧が何か言ったのは分かって、私はゆっくりと本から顔を上げる。視線はぶつからなかった。ただの聞き間違いかもしれない、が。
「今、なんて言ったの?」
「どこかに行きましょうか、と」
 抹茶色のソファに座っていた慧は、その肘掛けに凭れ、彼の方に足を投げ出している私に手を伸ばして有無を言わさず本を取り上げた。
 私はぽかんとして、特に抵抗もせずその動作を目で追っているだけだ。驚いているのもあるが、単にめまぐるしく変わっていく思考に発言が追いつかない。
「え、だって。外出禁止令は」
 慧は仕事以外の外出そのものを禁じられていたはずだ。たまに外へ行くことがあっても、私がわがままを言った時に限るそれは数時間から半日くらいであった。目を丸くさせているだろう私に、慧は小さく笑って私の髪を一房、手にとった。彼の本も閉じられて、無造作に畳へ転がっている。
「今日から一週間、解かれているんですよ。どこでも好きな所へ行けます」
 そして、あつらえたように時期はゴールデンウィーク。現在は四月の終わり、私も五月の第二週までは大学を自主休暇しようと考えていた。「たまには家に帰って来い」と懇願交じりに両親に言われていたから。でも、そのくらい。
「行くわ」
「どこにします?」
 私は迷わずに即答した。昔から私と慧の間では出かける所と言えば専らここで、夏休み中ずっといたこともある、思い出の地を。
 ――軽井沢の別荘。慧がふっと目元を緩めたのを、今度は見逃さなかった。


 出発は朝早い時間帯だった。私はいつも通りに濃い青色のアイマスクを付け、手を取られ慧に導かれるままに車へと乗り込む。
 アイマスクに何の抵抗も感じなくなってしまったのは、私の感覚が麻痺した証拠なのだろうか、とおそらく後部席に座りながら私は自嘲じみた笑みを漏らした。
 高校時代の通学に使っていた、黒く無駄に縦に長いやつではないな。乗り心地や揺れからそう判断したけれど、それ以上は何も分からなかった。もちろん、今も私は仁科邸が東京のどこにあるのか知らない。慧や他の誰かに案内されない限り、私は帰って来れない状態にある。
 昔は、本気で慧は別世界の、異世界の人間なのだと思っていた。神やお狐さまの類ではないのかと。ぼんやりと考えをめぐらせ、私は口角を吊り上げた。
 家から離れるまでは景色を楽しむことも出来ず、手探りで何かを食べようとするのもままならない。慧は運転に集中しているのかひどく安全運転な様子で、話すのも憚られる。暗く、光は瞼越しに薄っすらと感じるのみ。それに早起きしたとなっては、私が眠りに落ちるのもそう遅くはなかった。
「もう外して良いですよ」
 遠くでそう聞こえたような気がしたけれど、時は既に遅い。

 ひんやりと冷たい風に気がついて、目が覚めた。空気の感じから別荘に着いたと判断するのと同時に、耳元がくすぐったくなって私は身を捩らせる。
「おはよう御座います。よく眠れましたか?」
「……慧、それって嫌味に聞こえる」
「そうですか?」
「ばっちり」
 アイマスクを指先に引っ掛けた慧は、私の目の前で微笑む。神が念入りに時間をかけて作り上げたのだろう顔の造作は、例え背景に黒いものが見えたとしても相変わらず美しかった。
 風が入ってきたのは窓が開いていたからだ。
 視線を慧から外し、外を見ると清々しい五月晴れに、目に鮮やかな黄緑。私有の別荘地とあってか人気は少なく、車が振動する音と木々の中を風が通り抜ける音しか聞こえてこない。
 幾つ年が経っても、この場所は同じだった。和風の仁科の屋敷とはまた違った、西洋風の戸建。柔らかなクリーム色の壁に濃い茶色の屋根を持つこの別荘は、小父さまの恋人であった陽子さんという方が好んで使っていたそうだ。私も幼い頃に三回程度、会ったことがある。
「見ての通り、着きました。出る準備を」
「ん」
 と言ってもやることは少ない。慧が選んだ靴を履いて上から桃色のパーカーを羽織り、後部座席に置かれていた、それと同色の小さな鞄を手に取るだけ。あとは、そうだ。預かっていた別荘の鍵を確認して。
「先に入っていて下さい。後から行きます……あぁ、荷物は置いたままで」
 後ろの荷物を取り出そうとすると、改めて運転席に座り直した慧が言った。「持たせられませんから」と。ここへ来る度に毎回のように言われていることを思い出して、くすりと笑う。
「はぁい」
 それへの返事はなく、滑らかに濃紺のは動き出す。近くの駐車場――これも私有だそうだ――まで向かう車を、見えなくなるまで見送り、私は伸びをした。
 滞在は一週間。楽しい時間が始まりそうだった。


 あっという間に過ぎていく、穏やかな日々。
 特に何をするのでもなく一日本を読んでいたり、車で美術館に足を運んだり。時には別荘の周辺を散策して、昔よく遊んでいた小川で年を忘れ、水をかけ合って遊んだ。一日が過ぎていくとあと何日なのかを数え、時間が過ぎなければ良いのにと願う。それほど別荘での毎日は楽しく、私は一週間の休暇を満喫していた。
 そして、六日目。
 私達は二人きりの夜を過ごしている。「火は絶対に使わせない」と私以上に手を大切にするべきな慧が言い、結局押し切られて慧が夕食を作った。
 明日はまた朝早くに出発、夕方からは普段の毎日に戻る。慧は見た目と不似合いなカルボナーラの皿を机に置き、僅かに陰りのある声で言った。
「明日の夜には京都に発ちます。一週間は戻ってこないので、実家に帰っていて下さい」
「――京都?」
「新作の和菓子の披露会に招かれまして。その他にも色々と」
 確かそんなこともあった気がする。茶道とお菓子は切っても切れない。季節ごとに行われる和菓子の披露会に、今年も慧は招かれていたようだ。おそらく野苺庵だろうと見当をつける。あそこは昔から、家族ぐるみで付き合いがあるから。
 私が納得した表情を見せると、慧の顔も少し明るくなったように見えた。たった七日会えないだけなのに、可笑しく思って私は小さく笑みを零す。
「何か?」
「いいえ、何でもない」
 頭を左右に振ると、また沈黙が場を支配した。けれどそれはけして嫌なものではなくて。何も言わなくともお互いにお互いを理解している、そんな空気が流れている。
 机には見事に洋食ばかりが並んだ。カルボナーラに鮭のムニエル、葡萄ジュースが注がれた二つのコップ。今日だけは慧も未成年の私に付き合ってくれていた。
「小夜」
 私は顔を上げた。大抵、貴女が私を指す言葉だったから、慧に名前を呼ばれるのは久し振りのような気がする。
 向かいの椅子に座る慧は机の上に両肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せている。目が合うと緩やかに唇を三日月の形に歪ませ、慧は言った。
「……休暇は、楽しめましたか?」
 まるで言おうとした何かを途中で止めたかのような、不自然な間が気にかかったけれど。私は何も言わず笑顔で頷いた。
「もちろん、楽しかった。また来れたら良いのに」
「そうですか、なら良かった」
 ふっと今にも消えていきそうな儚さがあるのは、慧だからなのだろうか。それともまた別の、私には知らされない何かがあるからなのだろうか。
 食べましょう。
 言われて、私は胸の前で両手を合わせた。そっと目を伏せ、慧の声を待つ。
「頂きます」
「頂きます」
 そうして、最後の夜の晩餐が始まった。
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