蝶の夢

『一週間、実家に戻っていて下さい』
 慧が私に告げたそれがどんな意味を持つのか、よく考えてもいなかった。単にあぁそんなに実家に長居するのは久し振りだな、としか思っていなかった。
 言葉にならない態度という声を、私は受け止めようとしていなかった。


 実家のリビングに続く扉を開けた途端、私は荒々しい音を立ててそれを閉めた。ガチャンどころではない、私自身閉めていて壊れてしまうのではないかと思ったほどだ。
 踵を返し、玄関へと引き返す。廊下で見たローマ字でSAYAと明るい赤の色彩で描かれているルームプレートも、開けたままの扉から見えた防音室の黒いグランドピアノも全てを見なかったことにした。
 夜と言えど五月を過ぎた春、そう寒くはない。私は実家に置いていた適当なミュールを突っ掛けて外へ出、足早に道路へ向かった。
「……」
 四角く、高そうな艶々した黒い石に金の文字で書かれた表札は特に何も変わっていない。一人扶養家族が増えていた、も姉が突然結婚し実家に戻っていた、もない。記されていたのは私と両親の名前のみで、当然と言えば当然だ。
 そして、記されていた苗字は『久我』でもない。ひゅうと吹いた風が今日は結ばれていない髪を揺らしたが、私は黙って立ち続けていた。
 家へ連れて来てくれた無駄に黒く長い車は、もうとっくに見えなくなってしまっている。元々閑静な住宅地とあってか、午後七時を過ぎた今は外は静寂に包まれていた。
 だから、聞こえなかったという言い訳は許されない。
「さや」
「……どうして」
 真上から降ってきた声は予想外の人物が持つもので、ある意味予想通りだった。確かに昔は彼が私の家に当然のように遊びに来ていた時代もあったと思う。しかし、今ではそんなことはご無沙汰だったはずなのに。いや、それとも私が仁科の離れにほぼ住んでいる状態だったから、単に気付いていなかっただけなのか?
 私はゆっくりと顔を上げた。硝子玉のように綺麗な茶色の目と視線がぶつかるが、私は逸らさずに真っ直ぐ彼を見上げる。恥じることなど何もない。
「どうして、家にいるの」
「いちゃ悪い?」
 私の左横にいる彼、馨は不服そうに唇を尖らせた。水色の開襟シャツにジーンズのラフな格好だが、西洋人形のような外見ともありよく似合っている。似合うことを分かっていてわざと着崩しているのだろうとまで思えた。
「誰だって、久々の実家に帰ってきたら知り合いがいきなりソファにふんぞり返っていて、しかもお茶飲んでいたら驚くわ」
 私がそう言うと、今度は彼の番だった。両腕を胸の前で組み、品と形の良い唇をくっと歪めて。
「普段から全く家に帰ってこない、嫁に行ったも同然の娘が突然帰ってきたらさぞ驚くだろうね」
「……意地悪ね」
 それが全て本当だったから、私は何も言い返せない。見事に一本取られてしまった。不思議に悔しい気持ちはなかった。それよりも、先ほどから吹き付けてくる風だ。寒くはないはずだったのだけれど、体温が奪われているのを感じる。
「実家という言葉を使っていることが、何よりもそれを証明していると思わない?」
「……」
 さあっと血の気が引いていく音がした。

「おかえり、小夜。今日は小夜の好きなパスタよ」
 開口一番、台所に立つ母はそう言った。父とお揃いの濃い青色のエプロンを身につけ、るんるんと鼻歌でも歌い出しそうな様子で菜箸を動かしている。くるくると巻かれた天然パーマの栗毛、はっきりとした目鼻立ち、童顔。それらからは私と母に本当に血の繋がりがあるのか危ぶませる。
 しかし、例え似ていないとはいえ、姉妹に間違われることのほうが多いとはいえ、正真正銘の親子だった。
 母に驚きは微塵も見て取れなかった。中学生の頃、部活を終えて帰ってきた私を出迎え、「お帰り」と言ってくれた自然な調子と全く同じだ。しかし、あまりに無反応なのは如何なものか。
「慧さんから連絡がきたんだって、さっき。だから知っていたんだ」
「……なる程ね」
 後ろに立っていた彼が補足する。私はあぁ、と納得したように息を漏らした。
 鍋の中で乳白色のパスタを泳がせていた母は、ふと手を止めて私に視線を向けた。にこっと笑うその姿はまるで年頃の少女のよう。――仁科の小母さまとはまた種類が違うけれども。
「一週間もいてくれるのね。あっ、小夜の部屋も元通りだから」
「元通り?」
「客間として使っていたの。ごめんなさい」
 母は胸の前で手を合わせ、ね、と小首を傾げた。それは後ろの彼に向けた方が良いんじゃないのと思える仕草で、私は腕を組み、小さく溜息を吐く。しかし、本当に客間だったのだろうか。
 ……さっき連絡がきたにしては完璧に、家を出て行く前そのままの小夜の部屋を再現していたような気がする。果たして短時間でここまで出来るのか。
「別に良いけれど」
「そう? 良かった。小夜、明日からまた大学でしょう?」
「ええ」
 自主休暇入れて一週間の休みは軽井沢で使い果たしている。当然、明日からまた大学。電車はまぁ、使うのは四年振りだが何とかなる。
 流石に専属運転手なんてものは実家にないし、私も運転免許なんて取らせて貰えなかった。『免許なんて取ってどこに行く気ですか』とか、慧に言われたから。
 私が顎に手を当てて黙り込んでいると、母はこう言った。
「折角だし、馨くんに東京案内して貰いなさい」
「……」
 馬鹿馬鹿しくて言葉も出なかった。私は無言で後ろを振り返る。そこに立っている彼に、ちょっとこの人何とかしてよ、という意味の視線を込めて。
「構いませんよ。美術館にでも行く? さやが好きそうな展示やってるらしいから」
 視線の先を見る限り前半は母に、後半は私に向けられたのだろう。あっさりと言われたそれと反比例して、私の力は急速に抜けていった。


 悔しいが、馨の審美眼は確かだ。美術館の特別展示は私の、というよりも女の子が好みそうな装飾品。きらびやかで美しく、うっとりと何度も目を奪われる。休日だからそれなりに混んではいたが、並んでも良いと思わせるほどの値打ちはあった。どれもこれも美しい。
 あらかた展示を見終え、お土産のブースに入ると自然と彼は離れていった。もちろんお土産も装飾品に関するものばかりで、辺りを見回しても圧倒的に女の子が多い。
 おそらく、出口付近で待っているのだろう。何となくブース内をうろうろしていたら、斜め後ろ辺りから声がかかった。全く知らない人の声ではない。
「小夜さん、お久し振りです」
 人込みを掻き分けて近寄ってきたのは、慧の知り合いの少女だった。胸まで伸ばされている髪を緩い三つ編みにしており、紺色のゴムで纏めている。それよりも少し薄い青色の大人しめなスカートと淡い色のカットソー。最後にあったのは確か彼女の卒業式の日で、名前は神崎ゆかりさん。
 元々あの日は慧に会いに来たのだが、結局、仕事中の慧を待つ間に私が彼女の恋愛相談を受けていた。
 適当なことを言った覚えがあるのだけれど、その後、彼氏とは上手くいっているらしい。彼女の少し後方にあの、頭が良さそうな男の子の姿が見えた。
「久し振りね、ゆかりさん。デート?」
 ざわめきの中で掻き消されるような小さな声で耳打ちすると、彼女は頬をぽっと紅葉に染めた。可愛らしい、私にもそんな時期があったのだろうか。……なかったような気がする。
「はい。って、そうじゃなくてですね。あの方、どうしたんですか。慧にぃじゃありませんよね?」
「そうね」
「誰ですか」
「ただの友達よ。今日は久々に会ったの」
 どうやら、見られていたらしい。
 頭痛を感じた私はこめかみに手をやり、緩く目を伏せた。何だか変な方向に話が転がっていきそうな気がする。何より彼女は慧を兄のように慕っていて、ツーカーと言っても過言ではない。
「慧にぃの相手をするの疲れますから、多少の浮気は仕方ないかもしれませんが。あの……見捨てないで下さいね?」
 彼女は悲痛そうな面持ちで、ぎゅっと両手を組んでいる。場所が場所でなければお祈りをしているとも見えるだろう。彼氏が心配そうにちらとこちらを見たが、私は笑顔一つでそれをかわした。
「大丈夫」
 見捨てないから、とは何故か続けられなかった。
「本当ですか、なら良かったです。――じゃあ、私はこれで。また遊びに行きますね」
「ええ、さよなら」
 私はひらりと手を振って、会釈し彼氏の方へ戻っていく彼女を見送った。高校生らしく、どこから見ても幸せそうで楽しそうで、お似合いの二人だった。

 暫くぶらぶらして出口へ向かうと、彼は壁に寄りかかりながら立っていた。遠巻きに女の子の視線と黄色い声が集中しているが気にせず、私を視界に入れると身を起こす。
 片手に小さなビニール袋を提げている。茶色っぽいそれには隅にここの美術館の名前が印刷されており、彼が先ほどのお土産ブースで何か買ったということを示していた。
「何か、買ったの?」
「これ? さやに似合うかと思って」
「無駄遣いな……」
 私が指差すと、彼はビニール袋を軽く持ち上げる。中からは包装紙に簡単に包まれた、おそらく装飾品。……にしては、結構な大きさの物が出て来た。横幅はおよそ、私の両手分くらいはある。
「貰ってばかりで悪いわ」
 私は頭を振った。春休み、卒業祝いの席でも真珠の耳飾りを貰ったことを思い出す。
 彼の家ならそのくらい、はした金なのかもしれないがどうしても罪悪感が募る。私が捨てた訳ではない、けれども。何かにつけて貰ってばかりではいけないだろう。私は彼女でも何でもないのに。
「じゃあこれ、捨てるけど」
「え」
「勿体無いって顔に出てるよ、さや」
 くすりと笑った彼は、慎重な手つきで包装を剥がしていく。光を反射してきらめく、ビーズのティアラが姿を現すのにそう時間はかからなかった。
 シルバー、色は青。涙の雫のような大きなビーズは見る角度によって色を変え、眩しく輝く。所々に小さな白い貝も使われていて海を連想させ、軽やかで清楚な雰囲気を醸し出している。
 女の子なら誰でも手に取りたくなる可愛らしさだった。
「ちょっとだけ、つけて貰っても構わない?」
「……良いわ」
 固定まではせず、彼は私の頭にそっとそれを乗せた。遠くでわぁっと歓声が上がったような気もするが、何も耳に入ってこない。
 私は小さな頃のことを思い出していた。慧にも出会っていない、まだほんの七、八歳だった頃だ。馨は幼馴染みで、幼い日の私にとって大切な人だった。
 春は落ちていく桜の花びらを、どちらが先に三枚集められるか勝負をしたり。夏は一日中、飽きずに延々と海で遊んでいたり。シロツメクサの花冠を作ったことだってあった。昔の私には、どこまでも続くかのように見えた野原。二人で作ったそれを、彼は両手に持って。笑顔で。
『出来たぁ、かんむり!』
『さーや、つけてみてよ』
『うん』
 思い出がよみがえる。小さい彼の姿が浮かんで今の彼と重なり、またとけるように消えていく。私にとって馨は幸福な思い出だった。あたたかで穏やかな日差しのようで、そう、何もかも包み込んでくれる存在だった。それは今でも。
『今ならさやに真昼の世界をあげられる』
 どうして今頃、こんな台詞を思い出してしまうのだろう。甘えたいと、縋りたいと願っている。夜のない世界へ逃げたいと思っている。自由が欲しいと、誰よりも。
 そうして、私はふっと思った。
 彼の傍にいれば、光は手に入るのかもしれないと。
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