蝶の夢

真珠の耳飾りの少女

 豪奢な指輪、似合いもしない派手な色のドレス。これが内輪のパーティー? 嘘だろう。
「小夜さん、高校卒業おめでとう」
「……ありがとう御座います」
 眩しい光に照らされてきらきらと宝石が輝き、小母さま達の内面をより引き立たせている。もちろん、醜い方に。
「大学には進むおつもりですの?」
「ええ、まあ」
「綺麗になったわね、抹茶は美容にも良いのかしら?」
「……光栄です。どうでしょう」
 広間の片隅。私は誰にも分からないように肩を落とし、同時にずれたショールの位置を直した。普段全くヒールを履かないせいで出来た靴擦れが痛んで仕方ない。
 外は夕暮れだ。橙色の太陽が地面に近付き、代わりに空があたたかな橙から薄青、群青色に染まっていく光景が見事だった。
 名目は『今年高校を卒業した娘の卒業祝い』だったはず。なぜなら実際、父から電話越しにそう言われて呼び出されたから。あくまで内輪だと言い張る父に根負けして、笑顔で毒を吐く慧を無理やり説得して出てきた。しかし、着けばすぐにこの水色のワンピースを着せられ、化粧され髪も凝った形に結い上げられて、内輪とは名目の『卒業祝い』に顔を出させられる始末。
 私は隅で人物観察に徹することにした。出来ることなら仁科へ帰りたいがそれは出来ないし、誰も私に近づけないようにすることくらいは出来る。簡単だ。腕を組み壁に体重を預け、ひたすら不機嫌な空気を発するだけ。
 暫くそうしていたら、私の目に知り合いの姿が映った。彼だけが使う愛称で、私を呼ぶ。
「さや」
「馨、貴方も」
 来ていたのね、という言葉は場のざわめきに掻き消されてしまった。彼は早足で人の間を縫いながら私に近寄り、手を伸ばせば触れられる距離で止まる。
「久しぶり」
「ええ、元気そうで良かったわ。……どうしてここに?」
 最後に会ったのは、そうだ、一年前だっただろうか。つい彼にやりどころのない怒りをぶつけ、安沢の少女に助けてもらった覚えがあった。それよりも、問題はなぜ彼がここにいるのかだ。今日のパーティーが仮にも内輪だと言うのなら、彼がここにいるはずはない。彼は私の親戚ではないのだから。
「小父さまに是非と言われてさ。さやにも会いたかったし」
 私は黙って眉を顰めた。本人は遠い会場の真ん中で社交に勤しんでいて、私のことなど気にしようともしていない。服を取り替えてしまえば、逃げ出しても気付かれないかもしれないな。 
「……そう」
「さやの婚約者は元気?」
「それなりよ」
「来れば良かったのにね。残念だ」
 社交辞令なのは私も彼も分かっていた。彼が慧にどういうイメージを持っていたとしても、慧はこういう場に出られるような立場ではないのだ。

 家族や学校であったことなど、とりとめもなく当り障りのない話題を続けていると、彼はふと思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ。これをさやの卒業祝いに」
 彼がごそごそと鞄から取り出したのは、淡い黄色の小さな箱だった。形は正方形で手の平に乗るくらい、サテン地の濃紺のリボンが十字にかけられている。強いて挙げるなら、宝飾類が入るような代物だ。私はそれを見つめ、次いで彼の顔を見た。相変わらず、曇りない綺麗なガラス玉の目。
「貰っても良いの?」
 言外に、そんな関係でもないのにというニュアンスを含ませて。
「さやのために用意したんだから、受け取って貰えなかったら廃棄処分かな」
「……ありがとう」
 幾つになっても、他意のない贈り物は純粋に嬉しい。破らないように慎重に包装を剥がしていくと、リボンと同色の箱が現れた。ビロードの小箱は手前から開けられるようになっている。大粒の、白い真珠の耳飾りだった。クレオパトラが酢の中に沈め溶かしたような、余計な飾りは一切ない、けれども豪奢で見るからに高そうなもの。
「つけてみても構わない?」
「もちろん」
 きっと、仁科に戻れば手に取り眺めることすら許されないだろう。誰から貰ったかなんて死んでも言えない。つけるにも鏡がないのでどうなっているか分からなかったが、耳から感じる真珠の重みと嬉しそうな彼の様子とで、何とか様になっているだろうことは確認できた。
 彼は穏やかに笑って頷く。
「よく似合うよ」
「普段、あまり装飾は付けないのだけれど。……ありがと、大切にする」
 耳朶に手をやると、指先にひやりと硬質の冷たさが触れる。そして、包装を解く時に手に巻きつけていたリボンがくるくると螺旋を描いて落ちた。


 慧はむくりと起き上がった。隣室から光一つ零れてこないということは、彼女はもう眠ってしまったのだろう。どちらにせよ、慧には都合が良い。
 深夜だった。時計は夜一時過ぎを示しており、離れはしんと静まり返っていた。三月になったとはいえ、流石に夜は寒い。慧は肩を竦ませてから、ゆうるりと視線を巡らせる。数秒するとそれはこの部屋に唯一ある文机の上、先ほど無防備にも彼女が置いて行ってしまったビロードの小箱に固定された。
 一見すれば、ただの箱。しかし――。

(邪魔ですね)

 慧は小箱を手に取り、注意深く見つめた。箱ごと手の中で転がし、感触を確かめ、真珠の耳飾りを凝視し。ややすると、それを発見する。そして、箱ごとそれを捨てた。


 なくなった。
 次の日、目を覚ましてこの部屋に来た時にはもうなくなっていた。ほぼ一日中をこの部屋で過ごしているのだから、他にあるとは考えられない。信じられない。貰ってすぐなくすなんて。部屋中……文机と抹茶色のソファ以外何もないすっからかんのこの部屋を探しても、どこにも見つからなかった。
 ソファに座る慧と視線がぶつかる。慧は今も『オペラ座の怪人』と筆記体で書かれた本を読んでいたけれど、先ほどから一枚もページが捲られていない。私は胡乱な眼差しを向けた。
「――慧でしょう、隠したの」
「そうだと言ったら、どうします?」
 疑問の語尾で紡がれる、それは肯定。慧は艶やかな笑みを浮かべて、私に向かい手を伸ばす。「おいで」と言われ、私は一歩、また一歩と引き寄せられて歩を進めた。
 倒れるように慧の横へ座ると、白く滑らかな指が私の顎を掴んで上向け、もう片手で頬に触れる。硝子の置物に触るようにそっと優しく何かを拭われて、ようやく、私は泣いていたことに気付いた。
「ひどい」
「そうですね、すみません」
 さらりと流し、幼子をあやす手つきで頭を撫でる。今日は結ばれていない慧の髪がとても近くに見えた。近付き過ぎて、私の髪と同化してしまいそうだ。
「あれには罪はないでしょう?」
「その通りです」
 けれど、と小さく呟いて慧は続ける。
「邪魔でしたから」
 私は婚約者だった。それは私のこれまでの人生の、約半分の年月。それだけ、比例して慧のことも知っているはずだった。理解しているはずだった。

 でも――。
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