蝶の夢

ハムレット

 その時、小夜は九歳だった。

「なに、読んでるの?」
 後ろから身を乗り出し、慧の手元を覗き込む。小さな挿絵もない字だらけの……少し黄ばんでいる古そうな本に、小夜はげっと嫌そうに顔を歪めた。心なしか、古本特有のかびとほこりが混ざったような匂いさえする。遊び相手である慧が読んでいなければ興味どころか、傍に置きたくもない類のものだ。
 いつもと同じようにソファに座って本を読んでいた慧は、真上からの声にふっと口元を緩める。皺の寄ったソファの上に置き去りにされていた栞をページの間に挟んで、快く本の表紙を見せてくれた。

 表紙があまりに綺麗で、小夜は思わず目を奪われた。まるで一つの絵画のよう。大きな池か、もしくは川だろうか。横たわり水の中へ沈んでいく少女の、揺らめいて光を反射する栗色の髪が美しい。慧はすっと、金色の糸で刺繍された題名の部分を指でなぞった。
「ハムレットですよ、シェークスピアの」
「ハム? 食べものの?」
 小夜は不思議そうに、きょとりと首を傾げる。違いますよ、と苦笑しつつ言って、慧は絵画の中の少女へと指を移動させた。
「この子、オフィーリアの恋人です。……大体」
 小さく呟かれた最後の単語を気にすることもなく、小夜は興味深げに慧の後ろから本を覗き込んだ。正確には表紙の少女を、ではあったものの。小夜はうっとりと目を細めてから、慧の肩口に顎を乗せる。もちろんこの時、小夜は話の結末なんて何も知らなかった。きらきらと目を輝かせ、無邪気な様子で尋ねる。聞けば目の前の人は何でも答えてくれるのだと、信じきった目で。

「ね、ハムレットって男の子なの? 王子さま?」
「そうですよ」
「オフィー……は、お姫さま?」
 不自然な間を開けてから、瑞々しく自然に赤い唇が紡いでいく。慧はその年に似合わずくつくつと喉の奥で低く笑い、そうですよ、と小夜の望む通りの答えを返した。
「じゃあ、慧はハムレット、ね。私はお姫さま。慧は私の王子さまなのよ?」
 にこにこと楽しそうに笑って、小夜は身を起こした。一回転し、それと共に着ていた花柄の長いスカートもふわりと揺れる。慧は柔らかく目を細め、愛しげな眼差しでそれを見ていた。
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