蝶の夢

雨の中、ふたり

 それはまだ、愛に憎しみが混ざらなかった頃のおはなし。

「……どうして」
 荒く息をしながら問い詰めた。肩にかけた中等部指定の通学鞄が下にずれ、空いている片手でそれを直そうとすると美しい指先が押し留めた。抵抗せずにいると、持ち手を引っ張った慧が当然のように鞄を引き受ける。傘を差していても多少は濡れたようで、みどりの黒髪から小さな雨粒がひっきりなしに落ちてピロティの床を濡らしていた。
 ホームルーム終了後、教室の窓から姿が見えて、まさかと思いつつも誰よりも早く昇降口にたどり着いた。ガラスのドアに遮られた向こうに、見間違いでも幻でもなく、傘を畳む慧を見つければ慌てて靴を履き替えドアを開けて、今に至る。
「見れば分かりませんか。迎えに来たんです」
 雨の音で声がかき消されたわけでは無いらしく、慧は首を捻り、答えるのに数秒かかりながらも平然としていた。
 もちろん『どうして』は何故ここに慧がいるかではない。大きな黒い傘を見れば迎えに来たのだろうと予想はつく。でもそれを容易に実行に移せる立場ではなかったはずだ。二年前に与えられた、婚約者としての知識が記憶違いでないのなら。
「どうして迎えになんか来たのって訊いてるの!」
 たかが雨くらいで。傘を持ってこなかった間抜けな私が濡れるくらいで。慧が掟を破る必要はどこにもない。
 それなのに慧はどこ吹く風で私の頬に手を伸ばし、触れる寸前でそれを止めた。ゆるりとした動作で腕を下ろしていく。
「貴女が雨に濡れ、あまつさえその姿を他の男にさらすのなんて許せなかったからですが、何か」
「……傘は? それに格好も」
 来る時に使っていたと思しき傘一つしか手首に引っ掛けていない。更にはジーンズに白い長袖のシャツを合わせた、中性的な、けして女装とは言いきれない格好だ。結ばれていない長い黒髪がぎりぎりのラインで慧を性別不詳にさせている。
 私の視線につられるようにして慧は傘と自身を順番に見、納得したように呟いた。
「二つも必要ありませんよ。貴女は小さいから一つで済む。格好は、取るものもとりあえず出て来てしまったので――」
 いけませんか、と優しく尋ねられれば否定は出来ない。感情が溢れ出てしまいそうで、私は制服のスカートを強く握って俯いた。
「公式設定では病弱、なんでしょう?」
「ええ」
「外出禁止令、出されてるんでしょう?」
「こっそり抜け出てしまいました。でも後々を考えればこの方が良かったんですよ、どうせ学園に取りに行かなければいけない書類がありましたから」
 それは違う。私に罪悪感を覚えさせないための言い訳だ。慧は計算して曖昧に言っているが、その書類を取りに来るのは別に今日じゃなくても良かったのだから。
「どうして傘がないって分かったの」
「愛の力です」
 それは嘘だ。誰か忍でも使って調べさせたに決まっている。
 突っ込もうとしてシャツごと慧の腕を掴み、水を含んだその冷たさにぎょっとした。視線を外して外を見ると横殴りの雨。激しく音を立てたどしゃぶり。もしかして、先ほど私に触れるのを止めたのはこのせいだろうか。
「濡れてるよ、体も冷えてる。風邪引いちゃうわ。……どうして、車で来なかったの」
 例えワガママな子供の発言――どうせ迎えに来てくれるなら車が良かったのに、と聞こえようとも、私の中では心配から出た言葉だった。車ならばここまで濡れなかったはずだ、と推測したのだ。
 けれど膝を曲げて私と目の高さを合わせ、慧は申し訳なさそうに謝った。
「残念ながら、車と運転手を自分の判断一つで動かせる権限は私にはないんです。免許は十八にならないと取れません。車でなくてすみませんでした」
「違っ……!」
 そういう意味で言ったんじゃない。どうにかして伝えたかったが、結局私が弁解を重ねることは出来なかった。
 ばしゃばしゃ水を跳ねさせて走ってくる足音と、私でも慧でもない別の声に邪魔されたからだった。
「お嬢様!」
 お嬢様とは、私のことを指していた。
 雨の中大変な思いをして帰ってくるであろう己の子供を思いやり、普段車で送迎をしていなくとも、特別に迎えをよこすか傘を忘れた子に持って来てやるというケースはこの時期、学園のそこかしこで見られる。ただ、私はそのどちらでもなかった。我が家に一台しかない車は中小企業の社長である父が使っているし、母は運転免許がない上に、楽観的な性格ゆえに私が傘を持っていると考えているはずだ。
 それを見越して慧が来てくれたのだと思っていた。
 誰のことを言っているのか気付いてなかった私は、再度「小夜お嬢様」と声をかけられようやく自覚した。見れば半透明のビニール傘を差した若い男性は父の側近で、何度か喋ったことがある。
 ピロティの中に入り、傘を閉じると彼はまず私に、それから慧に軽くお辞儀してから話し出した。
「社長の言いつけによりお迎えに上がりました。慧さまも宜しければご一緒に、仁科家本邸までお送り致します」
「父が、ですか?」
「はい。奥様からお嬢様が傘を持っていられないと聞き、すぐさま手配をなされました。ご両親ともとても心配なさっておいでです」
 ……なんと、まあ。このタイミングで。だからって、わざわざ徒歩で迎えに来てくれた慧を無下にするのもどうかと思う。
 どうしようか迷って見上げると、慧は珍しくも男に微笑を向けて労った。次には私の背中をそっと押して、まるであちらに行くようにと。
「良かったですね。この雨の中、歩いて帰るのは中々に大変ですから」
「ありがとうございます。車は停めてありますので、お手数おかけしますが駐車場までご同行願えますか?」
 穏やかそうに見える慧と、任務が遂行できてホッとした様子の彼。とんとん拍子に決まっていく話に追いついていけないのは私だけだった。引っかかるのは、素直に迎えを喜べないのは何故だろう。現れる直前に慧としていた会話が頭にこびりついて離れない。
 先に一歩踏み出しかけた慧を、シャツの袖口を握って引き止めた。
「……慧は、それで良いの」
「一般的に考えて、車の方が楽ではありませんか?」
 そんなのは答えになっていない。誰でも納得出来る正論じゃなくて、私は慧の気持ちを知りたいのに。このままでは美しい微笑みにはぐらかされてしまうと感じた。
 彼が立ち止まり、どうなるのか気遣わしげに私達を見ていた。
 父から派遣された彼の立場を考えれば車に乗って、慧と一緒に大人しく帰るのが正しいように思える。けれど正しいことと私達にとって最善であることは、必ずしも直結するとは限らなくて。
「慧は、車に乗りたいの? 楽したい?」
 指先からじっとりと水が伝わる。袖口についたボタンは留められていなくて、探ればすぐに肌に触れられた。
 日の下に出ることを許されない慧の手首はいつでも白く、細く骨ばっていて本当に生きているのか疑いたくなる。今日はそれに冷たさも加わっていた。
「先ほど、私に濡れていて体も冷たいと仰いましたね。それは車に乗らないで歩いてきたからだと」
 私は聞くや否や大きく頷き返した。確かにその通りだ。でも本質の部分が微妙に違う。
 別に私は雨の中、ずぶ濡れになって帰っても構わなかったのだ。誰かが迎えに来ることも期待していなかった。ただもしそうしてくれる『誰か』がいるのなら、出来るだけその人が不快な思いをしないように。私のせいで風邪を引かないように。
「……私は、ただ。慧の体が心配だったの」
 何か的外れなことを言ったのではと心配してしまうほどに長く長く、息を吐いて。慧はひどく嬉しそうに――と言っても、見慣れている私だからこそ分かるごく微妙な変化だったが――微笑んだ。心からのものだったと思う。苦笑でも社交辞令の愛想笑いでも、人を意のままに従わせたい時に使う魔性の笑みでもなく。
「その気持ちと同じですよ。貴女のご両親も私も、貴女が大切だからこそ濡れさせたくないんです。私に否はありません。……行きましょうか」
 そして思い知らされた。慧の言葉を聞いて、嬉しいと思う以前にがっかりしてしまう私は子供だった。
 本当に心配だったなら、慧の気持ちなんて聞かずに一緒に車に乗ってしまえば良かった。それなのに小さなことを言い訳にして、話を長引かせて。自分の願いを慧のせいにしたがった。
 認めて、しまいなさい。ぐるぐると頭の中、そればかりが占領する。
 いつまで経っても動こうとしない私に、慧は無言で目を細めると屈んで私の耳元に顔を寄せた。
「早く来ないと無理やり攫いますが」
 背筋をぞくりとさせる声音に本気を感じ取った。破天荒な一言が良くも悪くも全て吹っ飛ばして、おかげでゼロの状態になれる。
 冷静になって考えてみれば答えは一つだった。私の我侭と慧や両親が私を思ってくれる気持ち、天秤にかければすぐに傾く。
「嫌に決まってるじゃない」
 残念、と悪魔のささやきが聞こえた。

 車に乗り込んでから気付いたことがある。慧は傘と財布を抜かせば手ぶらだった。長袖シャツにポケットはないし、ジーンズの二つついている、もう片方にビニール袋か何かが入っている様子もない。
 それは要するに、慧は貰った書類を激しい雨から守ろうとする気はさらさらなかったということで。
「書類は取りに行かなくても良かったの?」
 おそらく、書類云々の話自体が私のための嘘だったのだろう。半ば勝利を確信して尋ねると、同じ後部座席で隣に座る慧はいささか大げさに目を見開いた。どうやら押し通す気でいるらしい。
「……忘れてしまいました」
 忘れた、ね。口内で何度か反芻して、望む展開に持っていくために有効な言葉を引き出す。
 私が言えば叶えてくれそうだけど、万が一を考えて絶対に断れないように。例え不可能であっても最初から投げ出されないように。そのために計算高い女だと思われても構わない。最悪、慧に誤解されたとしても。
「それでも良いけど――許してあげる代わりに、条件」
 良いでしょう、と媚びと強請りを含ませて両手で腕に抱きついた。
 しかし視線は慧を通り越して、その先に見えた景色にそっと唇を噛む。外の全てが次々に打ちつけられる雨粒にぼやけて、くっきりとは見えないでいた。後ろに流れていくプラタナス並木も。横に並ぶ赤と青、二つの傘と恋人達も。
 私達と外界を隔てるものはこの窓ガラスだけじゃない。
「何年後でも良いわ、迎えに来て。きちんと許可を取ってからね。晴れた日に、いつか二人で外を歩くの」
 だからどうか、この小さな願いだけは。
Copyright 2011 toko All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system