蝶の夢

七夕

 襖を開けると、畳の上に色が散っていた。光景としてはかるたや百人一首のちらしに近いが、まるで強盗に荒らされたようだ、とあえて表現したい。
 整った鼻梁に切れ長の一重、肘まで伸びた黒髪はうなじで一つに纏められ。中性的な容貌を持つ美しい強盗が、文机の前に座っていたからだ。
「慧」
 怒気を含んだ声で名前を呼べば、慧はゆうるりと顔を上げ視線で畳を示す。
 薄い桃色や黄色、水色と畳に散らばった短冊は無秩序で、かつ一つの共通点を持っていた。二十枚程度の全ての短冊に、黒々とした墨で今年の願い事が書かれている。
 私は筆を洗い終え、後片付けをしようと私室に戻ってきた所だった。
「『脱出』に『脱獄』に『断絶』……どういうことですか、これは」
 さながら、夫の浮気の証拠を突き出す妻。とっさに畳の上にばら撒かれた女性の名刺を想像してしまい、私はクスクスと笑った。
 何が面白くないのか、慧は私が笑えば笑うほど不機嫌になっていく。とりあえず手元の短冊を一枚――これは『解消』と書かれている、を手にとって慧に見せた。
「見て分からない?」
「この無意味な願い事の真意を訊いているのですが」
「無意味って……」
 おりしも時期は六月の終わり、短冊に何かが書いてあれば誰もが願い事と判断するだろう。
 慧は私が何を『解消』したいのか分かっている。だから無意味と言い切るのだ。……ここにある短冊に書かれた全ての願い事は、慧の了承無しには成立しない。それでも、言わずにはいられなかった。
「無意味なら願ってはいけないなんておかしいじゃない。――もしかして、全部見たの?」
 一歩部屋に足を踏み入れれば、左足首に付けられた銀の足飾りがしゃなりと揺れた。普段は気にしていないのに、こういう時は自分が軟禁されていると自覚してしまうから癪に障る。
 畳を彩る短冊達は、もちろん私がそうしたのではない。私室を出て行く前に墨が乾いた短冊を纏め、紐で結って文机の端に置いていたはずだ。
 わざわざ訊かなくともそうであろうことは推測出来る。案の定、慧はあっさり頷くと深く溜息をついた。
「文机に書き散らかしてあるものは大体。よくここまで類語を集めましたね」
「前々から辞書で調べて、マーカーでチェックしていたの。一年に一度だから熱も入るわ」
「その熱を別の所に使っては?」
 この上なく女装が似合うのに、本人は少しも乙女心を理解しようとしない。
「茶道に使うのは嫌。慧に使うのはもっと嫌。他人の為のお願いなんて論外」
 白、水色、濃い赤。足元の短冊を一枚一枚拾い上げながら言い、次第に文机の前……慧へと近付いていく。
 機織が得意な織姫にあやかっているのだから、芸事の上達を願えとやんわり皆へ伝えた先生もいる。そんなの真っ平だった。
 どれだけ書いても笹に飾れる短冊は一枚、願い事は一つ。本当の願い事を書かないで何になる。
 最後の一枚を拾って手の平の中で纏めていると、意外にも慧は簡単に頷いた。と言っても眉間に皺が寄り、視線を逸らし、剣呑に目が眇められ。かなり渋々といった風ではあったが。
「……まあ、宜しいでしょう」
「? 珍しいわね」
「良くも悪くも年に一度ですから。そのくらいの戯言は許して差し上げようかと思った次第ですよ」
 今度は私が機嫌を損ねる番だ。戯言? まさか。冗談なら最初から短冊に書いたりしない。
 慧は何食わぬ顔で私から短冊の束を引き抜き、二・三枚を一度にびりびりと破っていく。予想はしていたものの、あえて止めさせないものの、実際にされればかなり腹が立った。
 黄緑、薄紫、朱色に橙。ひらりひらり、畳に鮮やかな色が散る。たちまち私の手の中から短冊が消え、全てが跡形もない紙くずへと変わった。
「何からの『脱出』なのかにもよりますけど、これを叶えるのは無理ですね。――絶対に叶わなくても良いならば、願いなさい。私には短冊の無駄としか思えません」
 それは嘘だ。無駄になんてなっていない。
「無駄、じゃないもの」
 小さく呟いた途端に腕をとられ、強く引き寄せられる。力に逆らわず膝をつくと、すぐに視界が彼の着物の色に支配された。腰に手が回るのは繋ぎ止める為。くいと顎を掴み、無理やりに視線を合わせるのは私を惑わす為。
 ……では何故、こんなに悲しげなひかりを宿しているのだろう。
「まだ、短冊に残りはありますか?」
「……ないわ」
 これも嘘。
 本当はスカートのポケットの中に、二つ折りにされた桃色の短冊が入っている。文机の上に置かれ、今は紙くずと化した短冊は慧の行動を考えての偽物だった。
「一つしか願いが叶わないのなら」
 至近距離で、漆黒の瞳が私を射抜く。囁きは甘い毒のようだった。その甘さが浸透しくらくらして頭が痛くなり、何度も摂取しているうちにやがて神経が麻痺していく。何も考えられなくなる。
「私の願いは貴女だけですよ――」

『慧が私から解放されますように』

 ポケットの中に入っていた短冊を、布地の上からぐしゃりと握り締めた。
 慧の願いと私の願い、どちらが叶うのだろう。
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