蝶の夢
救世主
この小さな少女こそ、あの子の救世主だと思ったのだ。
仁科という男には持病がある。それはどんな方法を使っても治らない、どんな薬を処方しても意味がなく医師もさじを投げてしまうような、どうしようもない病気だ。
浮気症。
この場合、奴の性なのではない。まさに病気、一週間たりとも女を切らしては生きていけないのだ。あぁ、もしかしたら最近では男にも手を出しているかもしれないな。そして私――陽子も仁科の毒牙にかかった女の一人だった。
奴は切らしては生きていけないが、その相手はずっと同じ女なのではない。要するに綺麗であれば誰でも良いのだ。まるで気に入らない服をとっかえひっかえするように、次々に女を替えていく。否、女が仁科に見切りをつける場合の方がはるかに多いか。
とにかく、私は奴の愛人という立場だった。目立って愛人の経験があるわけではないが、その状態がかなり『変』だということは誰の目にも分かる。なんせ、私こと愛人と奴と本妻、そしてその息子二人が同じ敷地内に住んでいるのだから。
本妻は少女のような人だった。
もちろん外見は茶道の家元の妻らしく淑やかで一歩下がってついていくような大和撫子そのもので、所謂和風美人ではあったが、中身は少女そのものだ。それは純粋という意味でもあり、他人の迷惑を顧みない子供っぽい部分を持ち合わせている、という意味でもある。
長男は優しそうで、かつ頭の良い子供だった。
あえて言うのであれば、奴から悪癖やら短所やらを全て取り除いたような子供だった。外見は完璧に奴譲り、そして仁科家の跡取りとして自分がどう振舞うべきか、完璧に分かってしまっている。まだ大人とは言えぬ彼が、どうしてこのような全てを弁えた大人の瞳を持っているのか。いや、持たなければならなかったのか。不憫と言えば彼は怒り、私を蔑むかもしれない。しかし、そうとしか思えなかった。
そして、次男。名を慧と言う。
仁科家の跡取り問題から、常に女として振舞わなければならない子供だった。この子は――言い表すのがとても難しく、複雑だ。簡潔に説明は出来ない。
私はなぜか、息子二人の相手をするのが仕事のようなものだった。保母というには相応しくなく、また母でもない微妙な立場。何度相手をしても、慧は私に何の感情も抱かない。
考えてみれば変ではないだろうか。普通、母親から父親を取った恨みだの憎しみだのあるいは同情だの、興味だの持っても良いはずなのに。それは私にだけではなく、全てがそうだった。感情が欠落しているのだ。この子が何かに興味を示すことなどないのだろう……そう、私は思っていた。
薄っすらとした化粧と落ち着いたシンプルなデザインの衣服。髪を染め、あんなに派手に振舞っていた学生時代の彼女からは考えられない。嬉しそうに微笑む母子は、まるで絵画の一場面のようだった。
「ほら、ケイお姉ちゃんだよー」
友人である綾香に抱かれた幼子は無邪気に笑っている。ぷくぷくとしたほっぺ、まつげはくるんと上向きにカールしていて可愛らしい。腕は柔らかく、ぎゅっと握ればすぐに壊れてしまいそうなほどに細い。彼女の娘は初めて会う私や慧にも臆することなく上機嫌に微笑み、小さく滑らかな手を伸ばす。
会うのは久方振りだった。確か、彼女の結婚式で会ったのが最後だったか。とにかく、二年以上は音信不通も良いところ。それがどうして唐突に子連れで私の家へ、仁科の離れへやって来たのかは是非とも聞きたいが、それは問題ではない。私の目は慧に釘付けだった。正しくはぎこちない様子で幼子と触れ合っている、慧が。
笑っている。
私の前では無表情無関心無反応を崩そうとしないあの慧が、慧の指を握る幼子に微笑み返していた。
「どーしたの、ケイお姉ちゃん好き?」
私の動揺にも気付かず、彼女は幼子を抱え直してにこやかに笑う。彼女は慧が少女の格好をしているのにも気付いていない。慧をケイお姉ちゃんと呼び、幼子の耳元で砂糖菓子にも似た甘い甘い声で囁く。
私はこの和室に唯一ある文机に肘を乗せた。そのまま頬杖をつき、はぁと大きな息を吐いて。
「親ばかね、綾香」
「良いのよ、親ばかでー。ね、ゆーちゃん?」
私に向かい軽く膨れてみせた彼女は、しかしすぐに幼子へと視線を戻す。本当に、幼子が可愛くて仕方ないといったようだった。そして慧は、あの硝子の瞳で。何か見えているはずなのに、何も見えていない目をしていて。
母子を見ていた慧を、私は無性に抱きしめたくなったのだ。
その日から、私は息子達に線を引くのを止めた。
本妻に遠慮などせず、びしばしと笑顔の指導、ついでに勉強を見てやったり一緒にチェスをしたりして遊んでいた。……まあ、勉強は二人とも十分出来るものではあったが。つまりは感受性というものが足りなかったのだ、特に次男には。慧は次第に、ほんっっとうにゆっくりと私に懐いてくれた。その期間、約一年。季節が巡り、もう一度春になる頃には慧は私に意見やら批判やら、まぁ何らかの感情を見せてくれるようになっていた。
しかし、あの笑みだけは。
彼(彼女)への先入観など何もない幼子が向け、慧が返したあの笑みだけは私もまだ見られない。残念だが仕方ない、あれはあの幼子だからこそ出来たのだ。だからこそ私は探していた。
慧と同い年か年下くらいで、また年下過ぎるのではなく、純粋で心が美しい子供を。慧の家庭環境と宿命を知っても仕方ないか、と傍にいてくれるようなお人好しの子供を。そして、何よりも先入観が全くない慧の友達を。
春の園遊会だった。私や本妻にとっては社交に、仁科にとってはビジネスにと色々忙しい。しかし、水を得た魚とばかりに他の企業の社長夫人らと話し、情報を集めている本妻にとってはそう苦でもないようだった。私には苦以外の何ものでもないが。
親の策略など知らず元気に――おそらく、鬼ごっこをしているのだろう――駆け回る子供達を見ながら、どうやら私は考え込んでいたらしい。思案の理由は、もちろん慧のことだ。子供を見る度に思い出し、ふっと私の心を重くさせる。
「……小母さま? お腹いたいの?」
くい、と服の裾を引っ張られてようやく私は気付いた。
右手前には所々にフリルのついた白いワンピースを着た少女。数メートル先には苦笑しつつそれを見やる、少女の両親らしき二人がいる。目が合ったからか会釈をしてくれた。見るからに育ちの良さそうな子だった。つやつやとした黒髪がおかっぱに切り揃えられていて、またそれが良く似合う。愛らしい顔立ち、大人になればさぞかし。
……おっと。どうやら、一緒に暮らしている内に仁科の思考と似てきているようだ。危なすぎる。
「ため息ついてるよ、ここにしわが出来てる。……保健室、行く?」
ここ、と言いながら少女は眉間に人差し指を添えた。ぎゅっと力を込めて皺を作っている。それが何とも可愛らしい。
「ううん、いいの。お嬢さん、お名前は?」
少女も今まで走っていたのだろうか、薄い桃色に染まり上気した頬でこくりと頷く。それから、嬉しそうに胸を張って、子供らしいソプラノの声が響いた。
「さよって言うのよ」
――見つけた、理想通りの子。
私の読みはほぼ完璧だった。慧は彼女、小夜に心を開き共に長い年月を過ごすこととなり、まるでそれが当然であるかのように、自然に慧の婚約者となっていた。
けれども、愛人の座から離れて慧ともあまり会わなくなり、小夜への執着ぶりを噂として聞くようになった今。天使を射落として地上へと繋ぎ止め、優しい鎖で雁字搦めにした、今。
私はこう思うのだ。これで良かったのだろうか、と。
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