蝶の夢

白夜

 夜の花が咲いていた。彼女が子供だった時に誰もが認めていた可愛らしさは、女性に近付き大人びた、けれども少女らしさが抜けきらない微妙な年頃の色香へと変わっている。
 奇妙にも思えていた庇護欲はそのままに、赤く塗られた唇が凛とした雰囲気を醸し出していた。口紅と髪を結ぶ白い紐と、背中の半ばまで伸びた黒髪が危ういアンバランスさを保っていて。
 遠い昔に会ったきりの彼女――小夜は薄く桃色を溶かしたようなドレスを身に纏い、装飾は左足首の華奢なアンクレット一つのみだった。
 大広間で華やかな談笑が繰り広げられる中、彼女は壁に背中を預け、水にしては濁った色の液体を口に運んでいる。
 壁の花だ、と馨は思った。
 しかし花を手折ろうと、もとい話しかけようとしている者は誰もいない。彼女の持つ気高さか、それとも『病気がちな仁科の次男の婚約者』というデマだか本当だか分からないが、とにかく無闇に手が出せない立場からか。
 彼女にちらちらと視線を送りながらも、その勇気がなく立場もない。そう見受けられる。けれども、馨は違った。大義名分も口実もあり余っているのだ。
「さや?」
 スポーツドリンクをちびちびと飲んでいた彼女は退屈そうに小さく息を吐き……それから、馨を見て目を見開いた。嬉しそうに表情を綻ばせ、口を開こうとする。しかし、その形の良い唇が動くことはない。足首のアンクレットが、微かな音を立てていた。
 馨が近付くと、彼女への注目は一斉に外れる。間違ってもこのパーティーの主催者の息子に、不躾な視線など送ってはいけないからだ。彼女は何かを探すように周りを見渡してから、ゆっくりと微笑む。
「久し振り、馨。その名前で呼ばれるなんて思ってなかったから、びっくりした」
「もう二度とないと思っていたから?」
「……まあね」
 薄っすらとした笑み交じりに馨が付け足すと、小夜は曖昧に頷く。顎を上げまっすぐに馨の目を見て、彼女は言った。会話する時、きちんと相手の目を見る癖は相変わらずだ、と馨は思う。
「だって、私の名前は小夜さよだもの」
「……話を逸らすのが上手くなったね、さや?」
 くすくすと彼女は笑みを漏らす。子供の頃と同じ、ほのぼのとして穏やかな空気が二人を包んでいた。


「ところで、さやの婚約者は?」

 一番聞かれたくなかったことを言い当てられた私は、びくりと体を奮わせる。出かける前、随分と釘をさされていた。『男と話すのは必要最低限にして下さいね?』だの。『破ったらお仕置きですから』だの。どこで誰に聞かれているか分からなかった。
 彼が用意した衣服に小型の盗聴器が埋め込まれている可能性も、ないわけではない。
「今日は来ないの」
「来れない、じゃなくて?」
「馨」
 はっとして目の前の馨を見た。黒い式服、胸の前で両腕を組んでいる。硝子玉のように澄んで綺麗な茶色の目には、悪戯をする子供のような輝きがあって。――興味本位なら、本気で許さない。
「それを私が、馨に言うと本気で思ってる?」
「……分かった、ごめん。そんな怖い目で見るなよ、さやに睨まれると本気で怖い」
 彼は暫く顎に手を添え、考え込むように沈黙していたものの、やがて降参と示しているのか両手を挙げた。どうやら私は、思っていた以上にきついまなざしを向けていたようだ。
「仕方ないわね。大丈夫、元気よ」
「――そうか」
 まるで自分に納得させるように、小さく呟かれた言葉とは裏腹。打って変わって彼は、心配そうに私を見やる。そっと優しい動作で、髪に触れられる感触。抵抗はしなかった。
「噂は聞いてる。さやがこうして」
「言わないで」
 彼に頭を撫でられるのは確かに心地良かった。無条件に甘やかされているような気もした。けれど、それだけは困る。言われたくなかった。何も知らない人に、無闇に口出しされたくはない。彼の手を掴んで乱暴に私の頭から下ろし、強い口調で言葉を遮る。声が大きくなっているのには、自分でも気付いている。
「馨に私達の、何が分かるというの」
「……」
 彼はゆるりと目を閉じて、何も言わなかった。分かっている、これがただの癇癪だということも。けれど止められなかった。言葉は洪水のようにとめどなく溢れて流れ出し、凶暴に相手を傷つけて止まることを知らない。無意識に、爪の跡がつくほど拳を握り締めていた。
「馨に彼の、何が分かるというの。……だから私は」
 ずっと、彼の傍に。

「はい、ストーップ!」

 軽やかで明るい声が間に入った。高い位置で結ばれた二つ結びがぴょこんと揺れ、赤い髪飾りが視界の隅を掠める。私の前で大きく手を振り下ろし、私が言おうとしたそれを止めさせた少女は、今度は私に体を向けた。腰に片手を当て、ちっちっち、と呟きながら人差し指を左右に揺らしている。少女の髪も一緒になって左右に揺れていた。
「小夜さん、言い過ぎですよー。それ以上はダメですっ」
「……そうね、ありがとう」
 少女の言う通りだ。危うく、喋り過ぎる所だった。ぎこちなく微笑みかけて礼を言うと、少女は「ではっ」と姿勢を正し敬礼して、その場を立ち去る。
 後には私と馨が残されていた。


「馨に彼の、何が分かるというの。……だから私は」
 馨はその時の小夜の表情を思い返していた。打ちひしがれ、雨に打たれた猫のよう。気高く、染められることを拒絶する白薔薇のよう。彼女は今にも泣きそうに顔を歪め、微かに肩が震えていたのだ。
 パーティーが終わり数日経った今でも、彼女との会話は一言一句漏らさず言うことが出来る。それくらいに彼女との再会は、馨にとって衝撃が強いものだった。
「小夜さん、仁科の離れに幽閉されてるんですって」
「まぁ。それってやっぱり、仁科の後継ぎ問題? でも次男の慧さんは病気がちだと聞きましたが」
「だからじゃないの? ほら、慧さんの看病とか」
「後は慧さんがあっちの……ほら、精神のご病気とか」
 所々で聞いたその会話。肝心の小夜もそれについては何も言おうとしない。「馨に何が分かる」と一蹴されてしまった。ただ、最後に小夜に言われた言葉が馨の心に残って仕方がなかった。
 別れ際の問いかけ。
「もし、さやを救いたいと言ったらどうする?」
「救われる? まさか」
 ふ、と嘲るように笑った後、小夜は少し考えて、
「永遠に夜の来ない世界をくれるなら、考えても良いよ」
 赤い唇が紡いだ。
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