蝶の夢

美しいひと――シーンコラージュ

 美しさと悲しみは紙一重で。

 どこまでも続く広い和室に映える、それは優美な姿だった。藍染めの着物はこの場にひどく不釣合いだったけれど、その文句すらこの場の誰からも出て来なかった。まじまじと見るのは本当に久し振りで、一瞬自分の目を疑ったほどだ。
 この人は本当に、男性であるのだろうか。
 滑らかそうな白い肌。高い位置で、赤い紐でくくられたみどりの黒髪は艶やかで。男性にしては柔らかく。女性にしては身長が高すぎる。凹凸が少ない、すらりとした体型だ。
 隣に座る小父さまが、ほぅと溜息をついた。好色な父親が自分の息子ということを思わず忘れてしまうほどに、この親子の繋がりは薄く、また冷たい。
「仁科慧、ただ今参りました」
 私は慧を見上げて、言うべきだった言葉をなくした。生きるために、女性と偽らざるを得なかった人だ。ちっぽけなようで巨大な闇のような『家』という存在に、飲み込まれた人だった。

 時として愛は憎しみに変わってしまう。

 思った以上に、それは美味しかった。
 初めて飲む私のために薄口にしてくれ、苦くないように、私が飲みやすいようにミルクまで用意して。甘い抹茶ミルクなど邪道。そんなこと、家元の息子である彼が一番よく分かっていただろうに、自らそれを作ってくれた。
 抹茶など未知の飲み物だった私。今普通にそれを飲めるようになったのは、当時十歳であった慧の細やかな気配りのおかげだと思う。
「……おいし」
 あの頃はただ苦いものとしか思っていなかったのに。今はそれを、どこか甘くも感じている。小さく呟くと、東としてお茶を点てていた慧と目が合った。にこりと微笑まれる。
 次いで、正客である小母さまと視線がぶつかった。一見、柔らかな微笑みで。春の日差しのように温かく優しく、聖母を思わせるそれだった。しかし、その目は笑っていない。真冬のような冷たい光が、彼と同じ黒い瞳に宿っていた。

 歪んだ家庭、歪んだ屋敷。

 お茶会が終わり、お客さまがいなくなったその時だった。
 『それ』が落ちていくまでのその時が、酷くゆっくりとしたように見えた。音は吸収されたのかそれほど酷くはなかったが、割れた茶碗が畳の上に広がり、緑色の染みが井草を染める。見るも無残なものだった。
 彼はとても冷静で、眉一つ動かそうとしない。何も言わず、静かに母と呼べぬ母を見上げている。
「……それで?」
 その白々しさは、全てが嘘か演技のようだった。小母さまは、その白いつま先が血で汚れるのにも構わず、一歩、彼へと近寄る。今にも泣き出しそうな表情が、小母さまを年頃の少女のように見せていた。
「あんたなんか、生まれてこなければ良かったのに」
 物言わぬ人形の瞳が、小母さまを見つめていた。

 閉じ込められた、蝶は誰。

「歪んでいる? ――あぁ、そうだね。そうなのかもしれないな」
「何よ、その微妙な返事は」
「例えばの話をしよう。君は林檎は赤いと思うかい?」
「ええ」
「確かに、表面は赤い。皮だからね。しかし、切ったばかりの林檎は白い」
「更に、林檎ジュースは黄色に近いね。さて、どれが本当の林檎の色なのだろうか?」
「……分からない」
「そういうことだよ。物事は視点によって見方が違う」
「貴方から見たこの状態は、歪んでいないということ?」
「さぁ、それはどうだろう。でも、これもある意味純粋だと思うね」
「もういいわ、ありがとう」
「またおいで。弟から逃げたくなったら、いつでも乗り換えてくれて良いよ」

「命がないわよ、多分」
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