蝶の夢

鳥カゴの中の

 どこまでも続くかのように思わせる長い、長い縁側に私は座っていた。仁科の屋敷は迷路に似ている。迷ったら出て来れない、まるで神話に出てくるラビュリントス(※)のようだ。
 一つ一つが無駄に広く、しかも使われていない部屋が多々ある。出入りを禁じられた開かずの間、昔の武家屋敷のようなシステム。
 夏はなぜかひんやりと涼しく。冬はどこか暖かい。今ではどこかに隠されているのだろうと思う程度だが、昔はよく、このお屋敷のどこにクーラーがあるのかと不思議に思った。だが、その中でもこの『離れ』の光景は見事だと思う。
 少し首を動かすと、薄雲に隠れてぼんやりと光る満月。その光に照らされて白く見える夜桜が目に入ってきた。ほのかに香る桜の匂いが鼻腔をくすぐり、私は足をぶらつかせながら小さく笑みを浮かべた。
「……何を見ているんです?」
 後ろから不満げな声が聞こえてくる。
 私は、頭だけを動かして肩越しに慧を見た。縁側に腰掛けているだけ余分に、元々身長が高い慧が更に大きく見えている。真上から覗き込まれる感覚、慧の顔が逆さまに見えた。バランスをとろうと後ろに手をついて、心持ち顎先を上げる。
 慧は、変わらず美しい。夜であろうが昼であろうが変わりなく、神に偏愛された寵児のように。さらさらの、肘まで伸ばされた黒髪。しっとりと濡れた唇。並みの女性よりも強い輝きを放ち、老若男女誰もが目を奪われる。
「桜。……ねぇ、慧」
 ほー、と小さく声を零しながら桜を見上げていた慧は、私の声に気付くと、
「何でしょうか?」
 と言いながらゆっくりと隣にしゃがみ込んだ。口付けされそうなほど、吐息がかかってきそうなほどだ。顔と顔の距離が近い。ふわり、風に乗せられて桜の香りがした。
「もし、私が他の人と付き合うって言ったら」
 言い切る前に、慧はその綺麗な形の唇をゆがめる。
「――相手には別の世界に行って貰って、貴女は一生監禁でしょうか?」
 重ねて告げられた言葉に、表情が凍りついた。別の世界、はいわゆるあっちの世界のことだろうか。天上の。そして、今でも軟禁状態なのに。慧はこれ以上私を束縛してどうするつもりなのだろう。 
 思考の海に沈んでいたのが分かったのだろうか。慧は少し顔を離して、私の目の前でゆっくりと手を振る。
「聞いていますか?」
「聞いてる、ありがとう」
 質問に答えてくれたのなら、まずは礼だ。答えは後回し。
「そうですか。……覚悟しておいて下さいね? もし、そんな時が来たのなら」
 容赦しませんよ。
 慧は、そう言って微笑む。ただ純粋に、また艶やかに、それでいてお気に入りの玩具を取られまいと必死になる子供のように。
 容赦してくれないことは分かりきっていた。慧が誰よりも大切にしている人形を、慧は自身の手で玩具箱の中に閉じ込めてしまったのだから。その他大勢の人間など、もっと容赦しないに決まっている。
 そっと手を伸ばして、触れるか触れないか程度に彼の頬を撫でた。私は何も知らない無邪気な子供のようににこりと笑ってみせて、甘えるような仕草で彼の腕を取る。
「慧の傍にいるわ。……それが、私の運命なんでしょう」

 何故か、無性に泣きたくなった。


※ギリシャ神話に出てくる複雑な迷路のこと。中にはミノタウロスという怪物が閉じ込められていた。
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