蝶の夢

柔らかな檻

 白い蝶が、畳の上でひらひらと舞っていた。紋白蝶が部屋に迷い込むのは、そうあることでもない。私も三年ここで過ごしているが、実際そうなるのは初めてだった。自由に、不規則に揺れる一対の影。天井からの眩しい明りに照らされ、濃いそれが畳の上に落ちる。
 なぜか自分でも分からなかった。でも急な、意味の分からない衝動に駆られて。気付けば、私は縁側へと続く襖を閉めていた。蝶は行き場をなくしたのを分かったのだろうか、いや、分かっていないだろう。
 私が、もしくは彼がこの襖を開けない限り蝶は外へ出られない。かといって、直ぐに死んでしまうわけでもあるまい……そう考えたら、暫くこのままでも良いや、と思ってしまった。
「可哀想に」
 呟いたのは慧だった。肘まで伸びた、並みの女性よりも美しい黒髪。すらりとした体型と、完璧な形を持つ指先。中性的な顔立ちに、伊達眼鏡。男物の着物を着た彼は、それでもなお、妖花のような危うさと艶やかさを持ち合わせている。
 彼は抹茶色のソファに座っていた。殺風景な部屋で、それだけが異質なひかりを放っているようだった。一人用の小さな文机と、ソファと、布団。あとは延々と、畳が続くだけ。この広い和室にはそれしかない。
 彼が私から、自分と僅かな娯楽以外を全て、奪ったからだ。彼は、仕方なさそうに息を吐いて、
「逃がして差し上げたら如何です?」
 と言った。人のこと、言えないくせに。黙って俯くと、嫌でも目に入る足飾り。細かく施された銀色の細工、歩く度にしゃらりと揺れるそれ。三年前の秋、彼が私に贈ったものだ。
 GPS機能付きだということは、それから数日後にすぐ分かった。身を持ってして。
「嫌」
「何故?」
 それを、慧が言うか。半ば投げやりな気持ちで襖へと近付くと、足飾りが抗議の音を立てる。私は襖に手をかけた。
「なら、私も逃がしてよ」
「駄目です」
 柔らかく微笑んで言われたその言葉自体には、全く拘束性はない。けれども経験上、分かる。襖越しに感じる、微かな息遣い。その気配。私をこの離れに閉じ込め、拘束するためだけに雇われた何人もの人間。これを開けた所で、すぐさま。また私は捕まってしまうだろう。
「何故?」
「駄目なものは、駄目」
「いつまで、こうしてるつもりなの?」
 私は未だに、ここが地図上でどこにあるのかも知らない。学校が終わったとたん、車と彼が校門に現れて。私にアイマスクをさせて連れて行ってしまうからだ。
「そうですね……」
 腕を組んで、彼は考えているように見せる。嘘だ。本当は出してくれる気なんてないくせに。ややすると手招かれたので、素直に近寄った。両腕が腰に回り、引き寄せられる。
 抵抗など、もうしない。
「貴女が、私なしで生きられなくなったその時には」
 彼の膝の上に乗り、均衡をとるため彼の肩に手を置く。ソファの上で、抱き上げられているかのような格好。彼の腕の中は柔らかな檻だ。優しく甘く、真綿に包まれ。けれど、出ることは許してくれない。
 真上から見た彼の瞳は、変わらず美しかった。
「――最悪」
 でも、何故。私は嫌ではないと思ってしまうのだろう?

 一すじの黒い線が、ぱさりと彼の頬に落ちる。彼は片腕を更に回して、空いた片手は私の髪を手に取り。そのまま、唇へと。それを見たくなくて、私は顔ごと視線をそらした。
 元々弱っていて、力尽きてしまったのか。それともどこかから隙間を見つけて、逃げていってしまったのか。

 もう、紋白蝶の姿は見えなかった。
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